昭和四十七年八月二十一日 朝の御理解
御神訓 信心の心得 「縁談に相性を改め見合わすより、信の心を見合わせよ」
 本当の親子でありながら、親と呼ばれない子と呼ばれない程切ない、又悲しい事はないと思う。
 本当に親であり、子でありながら、親と呼ばれない、又子と呼ばれないという、本当に悲しい事だと思う。昨夜遅く、テレビで新派の【  】という水谷八重子の片岡賢夫が本当の親子なんです。けれども、親子と呼ばれないという、いわゆる新派独特のお芝居です。
 そして、とうとう最後に親と子と呼ばれないままに、子供の愛人と死んでゆくという筋なんです。本当に親でありながら、子と呼ばれない。私は天地の親神様もそうだと思う。本当に世界の氏子を氏子として、親であり、子であるという名のりが上げられて、そこから親子の関係に於いての働き、親の事は子が頼み、子の事は親が頼み、頼み合い致せ、祈り合いながら、それが天地金乃神様の人間総氏子にかけられる願いであると同時に、天地金乃神様としての事実を事実としてわからせる事の願いを、悲しいまでの願い、神の悲願とおっしゃるのはその事だと思う。
 私は信の心を見合せよと、ここに教えられております信の心という事を信心の信と書いてある。私は本当にその神様が、私共の親であるという信です。そういう信を固めていく。そういう信を確固たるものにしていく。そういう私は精進が信心だと思うです。
 お互いが信心させて頂きまして、天地金乃神様と、親神様と呼ばせてもらい、氏子として扱って下さるわけですけれども、果して、親として、親神様としての頂き方が出来ておるだろうか。
 いうなら、切っても切れぬのが親子の仲でしょう。夫婦やらは別れりゃ他人と申します。ですからもう切っても切れぬのが親子の縁というような、信心がお互いに出来ておるだろうか。信心を止めればもう親子の縁は切れるような信心ではならぬ。
 そういう信心ではない。昨日の特別奉修委員の方達に対する御理解に「ケタ違い」という事を頂いた。ソロバンの玉の事ですね。一つ一つ同じ一でありましても、一である同時に十である。勿論、百、千、万にもなる。一ケタ上がっていく事によってそういう事になっていくのがけた違い。又は段違いとも申します。
 例えばこの何と申しますかねぇ。お芝居なんかを見せて頂いておりまして、もう芸の違いというこんなにはっきり表れてくるものはないと思います。
 いわゆる段違いの役者が出てまいりますと、もう舞台が全部ひきしまってしまう。 舞台全体が生き生きとしてくる。どんぐりの背比べというのではない。やっぱり段が違うのははっきりしておる。
 これはそんなら、何の場合で同じだろうと思う。剣道だって、柔道だって同じだろう。段違いという事。私共は柔道剣道はわかりませんけれども、お芝居なんか見とって、これはお芝居の芸に段があるわじゃないけれども、少こうしこちらが好きですからわかる。もうはっきり段が違う。
 信心をさせて頂いてもそうです。段違い。ケタ違いの例えばおかげを頂く。例えば大阪当たりの大きな教会の話を聞かせてもらうと、何とお参りが、朝の御祈念でも千人からある。御本部参拝と言えばもう毎月一車両、又は阿部野なんかは、二車両づつもの人達が御本部に参拝をする。
 先日なんかはある教会が御本部の御造営に一億五千万円の献納が出来られたと。
 もうとにかくケタ違い。しかし実力の相違ですからしようがない。そこで私共はいつもその、そういう素晴らしい例えば段違いの人達を知っております事によってですそれに肉薄していくだけの信心というものが望まれるわけです。
 もううちはこん位でよかなんて、さらさら思わない。一歩づつでもやはりそれに近づかせて頂こうという願いを持っております。
 皆さんとてもやはり、でなからなければならんと思う。もうこの位のおかげ頂きゃこれでよいというような事では信の心とここにおっしゃるそういう心だと思う。そういうひとつの根性というかものを持っておる。
 それを信心させて頂く者はですから縁談に相性を見合わせるという事よりか、その信の心を私共の心に頂かせてもらう。本当に親を親として頂けれる信心。親を親として頂かれるところにです、例えば親は親たらずとも子は子たれといったような御教えを頂きますから、親の前に無条件という事になる。
 私共の場合、そういう神様を親として頂けれる信心、親として信心しておっても、神様との間に何とはなしに、そらぞらしい他人行儀のような事はなかろうか。まあ、神様とは従兄弟同志という人も随分おろうかと思う。
 ですからその神様にいわゆる本当の事はお願いが出来ない。本当な親子の働きといったような働きが生まれてこない。天地親神様というておるけれども、私共み本当に親神様としての頂き方が出来た時に、親が子に与える者は、もうそれこそ惜しい、欲しいなんか全然感じないです。
 そのまま財産はその子供に譲らせて頂いてもほんに惜しかけれども、しようなかという事は、全然ないようなおかげが頂かれるのです。
 結局こちらが顕しておる神様がどの程度のところまで頂いておるかという事です。 そういう例えばおかげをいよいよ頂かせて頂く為に、信心しておるいう事は同じでありましても、一という事は同じでありましても、それには十にしていく、千にしていく、万にしていくというようにです、そういう精進がなされなければいけない。
 一桁づつ進ませて頂くというおかげを願わなければならない。そこから一の時代には解決しなかったものが十の時代になったら解決する。十の時代におかげの受けられなかったものてが百のいわば桁にならせてもらった時に、おかげになるというように百ではどうにも出来なかったものが千にならせて頂いたらおかげになったというようなおかげがいよいよ親を親として、神様を天地金乃神様として、又は私共の親に対する子である、氏子であるとしての自覚というものが、本当に出来てくるという事は頭でわかるという事は、只一という事がわかるだけの事。
 ですから実際は従兄弟同志位なおかげしか受けていない。まあ、従兄弟同志とまではいかん、何というでしょうか、まあお付き合いという程度の位にしかおかげは受けていないというような事が皆の信心ではなかろうかとこう思うのです。
 せめて従兄弟か兄弟くらいな私はおかげを頂かせてもらう。そこからいよいよ、親と感じさせてもらう。いわゆる親と呼ばせれ子と呼ばれる程しのおかげ。そこには、いわゆるおかげは無条件、こちらも親に対して無条件になってまいりますように神様も又、無条件のおかげを下さる事を喜びとなさる。
 縁談に相性を改め見合わすより、いうなら赤の他人が夫婦になる。そして【  】を誓わして頂ける。あなた百までわしゃ九十九までというように素晴らしいいわば間柄というものが生まれてくる。
 そういうおかげを頂かして頂く為に私共はいよいよ信心とういうせのを高めてゆかなければいかんと思います。
 どのような問題があっても、焦点を親のところに持ってくる。焦点を親のところに願いをかけさせてもらう。信心をやめればもう神様との縁が切れたと思うような信心では、まだまだ親神様としての頂けてなかった証拠なんです。
 私共がひとたび、お道の信心を頂かせてもろうたら、そういうところをいよいよ神様との続柄というものをです、本当なものにしていく事の為に修行が必要である。それはその都度々に一桁づつ上がっていくという信心。それはどういう事かというと自分というものを空しゅうしていくという事。
 その都度々に我情我欲を離れてその問題に取り組むところからおかげが頂けてくる 百であった者がそういう機会を得て又自分を空しゅうする。〇になったらもうそこにすでに千の働きを頂かれる。
 そしていよいよです、本当に天地の親神様、いわゆる親であり子であるというよなおかげの頂かれるところまで、信心を進めていきたい。
 それはいろいろな事情がありましょう。それは例えば【  】講談にみるところでも身分が違うというので子供だけ男の方に引き取られて育てられる。
 二十何年間という間、自分の子供とわかりながら、子供と呼ばれない親の悲しさ。 その悲しい事情がです、子供の愛人と心中をしてゆかなければならないような悲劇になってくる。
 金光様の御信心を頂いておってもです、そういう悲しい事になったのではつまりません。ですから成程、様々な事情がありましょうけれども、そこのところをです、いよいよそういう時こそ我を空しゅうして一桁づつ上がっていく信心をさせて頂いたらそこから真のいわばおかげ、親が子供に下さるおかげ、しかもそれは惜しげも悪し気もない。無条件で下さる事の出来れる親子の道というのが開けてくる。
 天地金乃神様と私共の間にそういう道が開けてくる。そこをおかげ頂いていきたいと思う。
 縁談に相性を改め見合わすより真の心を見合せよとこれは普通で申します相性と、相性がよいとか悪いとかとこういうけれども、問題はどういう例えば事情があってもその心と心を見合せていけと。
 いうなら相性なんてものは、相性がよかっても悲しい結果になっておるところが事実沢山ある。そういう迷信から、そういう迷信を捨てて信の心を見合せれる信心をしていけという事でございましょう。
 けれども今日は只いま申します、たつみ講談の仲から親でありながら、親と呼ばれ子と呼ばれる事の出来ない悲しい事。
 天地の親神様と私共人間がです、本当に親子としての情が交流しないという事は、これは私共にとっても大変ないわば悲しい事です。
 けれども、神様にとっては尚更の事、それは悲しい事である。私共人間氏子の上にいついつまでも、そういう悲願、悲しい願いをかけておられる中に、私共はたまたま御縁を頂いて不思議な神様の御神縁によって、折角神様との間に結ばれる親であり子であるというおかげを、いよいよ頂けれるうちにうちに縁を頂いたのでりますから、それをいよいよ本当なものにしていく。いわゆる真のものにしていくというおかげを頂かねばならんという事。そういう意味で今日は聞いて頂きました。
 まあ信心を止めれば金光様との縁は切れたというよな程度で成程その人がおかげを受けなかったはずだとわかる。
 そうかと言って信心頂いておる全部がそういうおかげを受けておるとしたらです、実に少ないのです。
 今申しますように、いわゆる金光様とはお付き合い程度、天地親神様とはまあ、お付き合い程度の信心しか出来ていない人もあろう。従兄弟同志ぐらいのものかもしれない。段々おかげを頂いて、本当に肉親の情ももって交流する事の出来れる、そこに親であり、子であるという名乗りが本当に上げられる時に神様の御満足、又私共も満足以上のおかげの頂けれる時、私共の信心を検討した上に検討する為に、私共よりも桁違いにおかげを頂いておられる人達のある姿を見せて頂いて、それに一歩でも近づかせて頂くという事は、いよいよ私という者を空しゅうする稽古。いわゆる我情我欲を離れてともおっしゃる。
 そこに我が身は神徳の中に生かされてあり。なる程天地の親神様の御神愛御守護の中にあるのだという実感を頂かせて頂きながらの日常生活が出来るところまで、お道の信心は進めてゆかなければならぬ。
 神様に御満足して頂ける程しの信心を目指させて頂かねばならぬ。
                           どうぞ。